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【日記】2025/07/26 「書くこと」と「読むこと」への強迫

Posted on 2025-07-262025-07-28 by takaharakuya

 ぼく自身は普段から日記を「書く」という習慣がある。

 このブログだけでなく紙のノートやテキストファイル上に日記を書いては記録しているということを続けている。もちろん365日、毎日、断続的に書いているわけではないけれど、いつの間にか日記を続けてきて20年以上が経った。

 このブログではまた別の形で日記を記すことになったけど、こうしていろんな場所に日記を書き続けていると、時代ごとのうねりというのか、時代の色のような特徴や世相を反映した内容が意図せず投影されることもよくある。

 2020年代に入ってからは特に「書くこと」や「読むこと」への他者への伝達に関してを妙に意識するようになり仕事や一人でひっそりと書き綴る日記以外ではなかなか「書く」ということはしなくなった。

 コロナ禍での不要不急の外出禁止からマスクの着用が解放され始めたここ2、3年にかけて時間が経った今もそれはあまり変わっていない。

 そう感じるのはぼく自身のきわめて個人的な経験が根差しているからに過ぎない。2019年の夏ごろに起きた京都アニメーション放火殺人事件のことが頭をよぎったり、その他のことでぼくは「他者になにかを伝えること」そのものへの警戒心や懐疑心が強まったのかもしれない。

 近年ではコロナ禍が明けてからの楽観的なムードを取り戻そうとしているためなのか積極的に「書くこと」や「読むこと」に関する刊行物やイベントを目にするようになった。

 しかし個人的には、こうした刊行物やイベントの内容で書かれていることの意味に反し、それらの主張に対してはむしろ「書くこと」や「読むこと」への抑圧を感じることが多くなった。

 彼らは彼らでコンプライアンスや倫理的な言説が求められがちでいて、尚且つ先行きの見えない時代を生きるためにそれぞれの立場や理由から主張しているのだろう。しかし、著者が伝えたいことと実際にこちらに伝わることには時間的な共時性のみでは測れない時差が発生することもある。そうした場所や受け取り手の差異がもたらす意味のズレが起こりうることもまた、読み書きに関しては自明のことだとも言える。

 そしてまた、ぼく自身の感じていることは、そもそも言語を介して他人に伝達するという行為自体、何かしらの自身の感情などを言葉に当てはめていく作業に抑圧的なものを含意していることは言うまでもない。

 しかしなぜこうした「書くこと」や「読むこと」への抑圧を感じるのだろうか。

 書き手やそれを目指している人々を中心にして発言されるこれらの内容への疑義を感じている部分があるとすれば、それはおそらく「書く/読むことへの自明性」や「動機付け」の面があるからなのだろう。主義主張や「推し」が商業的にもてはやされ、急速に消費される中で取り交わされることばを書き手は読み手に伝えるために、まずは共時性と同時に自らの動機付けや理由に基づいて発言しなければ、関心が持たれなくなってきたとも言えるかもしれない。だとしたらそれは「読まれない」「書かない」ことも増えたのではないかとぼく自身は感じているのかもしれない。

 少なくとも、彼らの必然性に引き付けた主張と同じようにはぼくは書けない。

 なぜなら、「書くこと」も「読むこと」も本来は自明性や必然性といった経歴に紐づけて行う行為ではなく、自発性や偶然性も含まれているからとぼくは知っているからだ。

 少なくとも、20年以上日記を書き、書き続けてこられたのは別になにか「書くこと」に対しての自明性などは必要不可欠なことではなかった。「他者」というものを介した言語のやりとりで求められる自明性や必然性の提示が必要不可欠な時代──。なにかしらの強迫じみた共同幻想を感じている部分があるとすればおそらくは偶然性や突発性の性質が含まれている文章に対して、人は報道以外では興味を示せなくなった時代と言ってもよいのだろうか。

 短時間の動画やリールを承認しあい、そしてまた「推し」を主張するかたわらでそれらの関心の外には冷淡な眼差しを向けてしまいがちなことに慣れていく時代性への諦念を抱きつつあるからなのかもしれない。

 これをある種のルサンチマンとレッテルを貼り付けて片付けてしまうのはとても容易なことだ。しかし、それによってルサンチマンの解像度が上がるわけでもないし、この問いを進展させることにもならない。

 ぼくがもしそんなルサンチマンに対して、いまの仕事以外で「書くこと」や「読むこと」に起点を持つとしたら、どんな人であれ「読み書き」という行為には偶然性や突発性、自発性に起因して「なにかを伝えたいと、突然思うこと」からはじまる道筋もあると示すことなのだろう。それはどんなときでも良いし、途中で書き止まってしまっても良いのだ。

 執筆の態度や読解に息の詰まるような「誠実さ」が強迫的にもてはやされる時代にあって、しかしその内容に反し即物的で刹那的なルッキズムを取り除けない現代に対してのどうしようもなさにぼくはそんな自由を呼びかけることから、ぼく自身の「読むこと」と「書くこと」を示しておこうと思う。

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