30代を迎えて数年が経ってからというもの物事についての「なぜ?」や「どういうこと?」と疑問が浮かんでしまい思考が立ち止まることがよく起こるようになった。別に他の大人たちも日々を暮らしてゆく中で疑問が浮かび、何らかの手段で 調べて解決したり……ということはよくあることだろう。そういう意味では誰にでも起きていることだし、日常の様々な出来事に目を凝らして意識を傾けていると発生するものに過ぎない。
子供の時期にはこのような何事も「なぜ」を延々と繰り返す現象のことを「なぜなぜ期」と称するらしいが、大人の場合に、それもある時期に再び世界への「なぜ?」や「どういうこと?」の疑問の塊が呼び起こされる時期があるような気がしてならない。
ぼくは職業柄毎日のように知らないUIや知らないデータを渡されて、それの使い方や意味を読み込んで仕事をする。最近もまた社内にあまり資料がない状態のものを先行して調べながら形にするようなことをしている。
そういう世界に浸っていると、メタ的に自身が疑問で立ち止まる瞬間にさえも意識が向いて、「なんでここでわからないんだろう?」という原因と疑問の解析がはじまることが習慣的になってくる。最近はこういう疑問を効率的に解決するためにChatGPTなどのAIツールを使用して安全な範囲で、かつ精確な内容のみを抽出して解答することが増えてきた。以前と比べると、2020年代以降で各段にAIツールの問答のレベルが向上した成果もあり、解答に辿りつきやすく、また対人関係でよくありがちな「仕事上での質問のストレス」という心理的な問題も考慮しなくて済むので非常に助けられている。
しかしこうして、AIに疑問を投げてデータを食わせていながら、その反面でネット上の検索ワードで上がってくるデータの質はどんどん劣悪になってきているような、そんな印象を近頃は受けてしまう。
おそらくAIツールの方が端的に、なおかつ高速で解答をしてくるという性質もあるからなのだろう検索ワードに入力してでてきた検索欄をスクロールしその中から「当たり」を引き出すというスタンダードなネットサーフィンの方法そのものが非効率的になりつつある、ということなのかもしれない。
いまはAIが導入されている黎明期であることは間違いない。その中で成熟してゆくと再び検索エンジンが洗練されてワード検索から知りたい情報にたどり着けるように精査されるようにもなるかもしれないが、いまのところはよくわからないサイトやいわゆる「いかがでしたでしょうか~」系のサイトが乱発されるようになり、公式のサイトや情報であっても、数年でそのデータやサイトが消えてしまったり……ということがよくあるようになったと思う。
別に自分が呆けている訳でもないが、作りの甘い説明やドキュメントを読んでいると「5W1H」が日本語では省略されがちなせいなのか、その前の手順や名詞が抜けてしまっていることに気が付いて「それはどこのことを指しているの?」と思うことが頻繁にあるのだ。共有された情報にムラがあると起こりやすい現象の一つとも言えるけれども、説明はどこまで説明し尽くしたら説明になるか、という問題もまたそこでは起こりえる。
「相手にとって知りたい情報とはなにか」を引き出して考えた情報の連なりを記してゆく中にあって、「情報を知り得ていること」は頻繁にバージョンアップの波によって更新されてしまうこの時代の最中で起きていることは「問題を効率的に解決すること」よりも「疑問へ効率的な解決方法を得る手段そのものを持っていること」自体に情報の意義が集まってきているのではないか、なんてことを書いてみたかった。